祖師上地完文は明治10年(1877年)5月1日に、
沖縄県北部の伊豆味という山村に生まれた。
沖縄の本土復帰行事のひとつとして催された海洋博覧会会場の近くである。明治10年といえば、多くの政論、政争で世の中が騒然としていた頃である。当時の沖縄はいまだ廃藩置県の制度が適用されておらず(本土は明治4年に施行)、依然として「琉球藩」のままであった。祖師の誕生した時代は、明治12年の廃藩置県を目前にして、日本政府による琉球処分に抵抗する藩論が沸騰している頃でもある。
一方政府部内では、積極的な征韓論者であった西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが参議の職を辞して野に下っていたが、その中の一人西郷隆盛は、郷里鹿児島で私塾を始め、士族は政府の施政を批判し、西郷を推して挙兵した。これが明治10年の「西南の役」である。
祖師完文は、第一次琉球処分、西南の役を背景とした騒然たる時代に、緑の山々や清らかな小川のある山村で20歳の成人を迎えている。
もちろん20歳になるまでの間にはいろいろ学び、さまざまな経験もしたであろうが、巷に伝わる武勇伝に対し、特に深い興味を持っていたのは祖師完文のみではなかったろう。男子なら今も昔も変わりはないと思うが、強い者への憧れは誰もが持っている願望ではないだろうか。ただの願望で終わるか実行に移すかによって、その人の人生が大きく変わることがある。
当時中国拳法の影響を受けた「手(テイ)」(空手のことを当時“テイ”と称していた)が、那覇や泊、首里の都市地区で、ひそかにではあるが空手愛好者の間でさかんに研究されているのを遠く聞き及び、武術修行への志を強く意識するようになっていた。
時が経つにつれ志は日々高まるばかり、それも本場中国でと。ところが沖縄の片田舎から身寄りはおろか友人、知人さえまったくない、言語、習慣、風俗等の異なる中国へ単身で渡るということは並大抵のことではない。志を固めはしたものの、具体策はなかなか浮かばず、まったくの暗中模索の態であった。
だが「一念岩をも通す」のたとえ通りに東奔西走しては聞き回り、また自らも学び、渡中の計画は一歩一歩具体化されていく。青雲の志に燃えて離郷しようとする青年完文が、両親を始め友人、知人からも激励され、中国へと旅立ったのは若干20歳のときであった。
「異国とは、すなわち逆境である。
しかるにそこでの立身は、すべて逆境に打ち勝つことから始めねばならない。己との戦いがすべてで、己に打ち勝つことがとりもなおさず成功への第一歩である」
この言葉を胸に、住み慣れた郷里伊豆味を後にして、中国へと出発したのは明治30年(1897年)であった。
明治30年といえば日清戦争が終わったばかりで、その三年後には米、英、露の軍隊が連合出兵することになる北清事変を控えており、また日清間の国交関係は風雲急を告げ始めていた。
そんな不穏な時勢柄、一介の個人が2つの国の間を自由に行き来できるはずがない。法の網をくぐる以外、中国に渡る方法はなかった。それに年齢的にも徴兵適齢期(沖縄では明治31年徴兵制施行)に当たっており、そのような時期に外国へ出るのは一種の兵役忌避であったことになる。したがって中国に渡る手段としては「密航」以外に方法はなかったことになる。
だが、その当時の密航を考える場合、現代の法感覚にのっとって簡単に違法と決めつけるわけにもいかないだろう。当時は沖縄と中国、あるいはインドシナ半島へと、木造の山原船(2〜4トン位)でなかば公然と自由に行き来しているありさまであった。したがって技術的に難しいものではなく、高い密航賃を支払えば行くことができたのである。
その頃の中国といえば、例の義和団事件(挙匪の乱、北清事変ともいう)の構成組織の指導者たちが拳法の達人であり、その他の組織、白連教、大刃会等も拳法家の集団であったという。だが戦いに敗れた憂国の挙士たちは匪賊挙匪という汚名をきせられる。
当時、半植民地化しつつあった清国の独立を守ろうとして、排外勢力を駆逐しようと、扶清滅洋の思想が全国に広がりつつあった。その結果、各地に起こった排外運動は明治32年(1899年)、山東省に義和団が結成されるまでに高まっていった。当然武装蜂起が相次いで起こり、政情は混迷をきわめ、民心は落ち着きを失っていた。
そのような時勢下に祖師完文は渡中したのだから、それ相応に風当たりが良くなかったことは想像できる。だが彼は、そのようなことを知ってか知らずしてか、福建省の福州に落ち着いた。
当時福州にパンガイヌーン(半硬軟)と称する
拳法の一派があった。
この流派は門外不出の拳法と言われ、誰れ彼れにでも修行を許すことはなかったようである。それにこの拳法を学ぶ多くの者が文武に通じ、特に漢方医学に関しても深い造詣の持ち主が多く、祖師完文はこのひたむきに武道の修行に励む諸先輩方に追いつこうと必死に修行に励むことになる。
時として政治的に反目し合う国民同士の間にはさまれて、物情騒然として排外思想の横溢していた中国人社会での修行であるから、時には言語に絶するほどの内面的苦痛を味わったであろうことは容易に想像されるところである。だがそれは、祖師完文が耐えなければならない、理知と感情を賭けた大きな試練であったろう。そしてそのような試練を乗り越えるためにも、「郷に入れば郷に従え」のたとえ通り、彼は「中国人」になろうと懸命に努力を重ねたのである。
私の亡父上原三郎の生前の話は、
このことを裏づけているように思われる。
師完文は酒豪ではなかったが、酒が少々回ってくると中国語がよく出てきて皆を面食らわせたといい、また、歌を歌えば中国の歌の方が得意であったともいう。
渡中してはや6年余り、「朝に夕にの修練は万事成就せり」と、師や先輩諸氏に言わせるまでに、修行は確実に実を結んでいた。要するに師には異国の達人上地完文という直系の弟子ができたわけで、そこに蒔かれた種が、やがて海を越え、日本を始め世界の国々に根づくことになろうとは、夢にも思わなかったにちがいない。
だが当時は日露戦争が勃発し、日本の国情が騒然としている頃であった。当然、彼は帰心矢のごとし気持ちになっていた。それは修行が実り、故郷に錦を飾りたいという気持ちより、風雲急を告げる国もとのことが気がかりであったからである。さっそく帰郷する旨を手紙にしたためた。だが、折り返し手もとに届いた返事は、「帰郷まかりならぬ。なおいっそう修行に励め。」という、厳しい内容のものであったという。それは、子を思う親の処置であったといえよう。徴兵免除の唯一の根拠である外国滞在をそのまま持続させ、息子に兵役を免れさせたかったのであろうと思われる。
帰郷禁止の勧告に加え、師の希望もあって、帰郷を延期し、なおいっそう修練を重ねることになった。山に籠もり、自己修業にも励んだという。その間のエピソードもいろいろあるが、ここでは省くことにする。
明治40年(1908年)、先輩諸氏の熱心な勧めに従って、
祖師完文は福州の南昌で「パンガイヌーン拳法社」と
銘打って門弟の指導を始める。
道場を開設して2年後の初夏より秋にかけて、福建省一帯は大旱魃にみまわれるが、ちょうど旱魃時における灌漑用水の分配をめぐる争いに端を発し、門弟の一人が人を一人あやめてしまった。たとえ過ちとはいえ、結果的には拳法術を身に付けているが故の殺人ということになる。
その後彼は、弟子の犯した過ちは師たる自分の指導方法の結果にもあったのではないかと、自責の念に捉われ、日々苦悩するばかりであった。そして引責処置として道場を閉鎖し、帰郷したのである。
この引責処置は、帰郷後10年余りにわたって社会的に沈黙するというかたちで続けられ、二度と他人には拳法術を伝授するまいと心に誓ったのである。帰郷後はただ黙々と土を耕す生活を続け、すべてを忘れたかのように拳法術(空手)の伝授を試みようとはしなかった。やがて風の噂で、彼が中国拳法の達人であることが知れわたり、日を追うにつれて伝授を請う声も高まっていくが、彼は頭を縦に振らなかった。
祖師完文は心に期するところあって、
大正13年(1924年)、和歌山県に転出し、
紡績工場に就職する。
だがここでも、伝授を請う者の声はいっそう高まるばかりであった。それでも彼は頑なに断り続けていたが、いつまでも断るわけにもゆかず、拒み続けてきた理由を語らなければならないと思うようになっていた。黙して語らずの姿勢も、真心のこもった声の前に、ついに崩れる時が来たのである。
大正15年3月、ついに拳法の伝授を決意し、和歌山市に、「パンガイヌーン唐手研究所」を開設した。同じ頃、故船越義珍先生が東京小石川に「明正塾」を設け、沖縄の空手普及に乗り出したばかりであった。
唐手研究所開設と同時に、故友寄隆優先生や故上原三郎先生、後には祖師完文の御子息の故上地完英先生、その他多数の伝授者を出している。この道場こそ、現在の全上地流空手道の主柱が育つ場となったのである。