当会派について

■ 上原三郎誕生と空手歴

 1900年(明治33年)8月5日沖縄県那覇市字大嶺で父親、武太、母親、カマドの長男として生まれる。幼少より半農半漁の両親を助勢し、1921年(大正9年)徴兵で陸軍に入隊、兵役除隊後も半農半漁の両親と共に従事し、1925年(大正14年)に和歌山市へ渡り、和歌山紡績の手平工場に就職する。
 勤めの傍ら県人会活動に参加、当初は本部御殿の本部朝勇師(通称本部ウンメー)の門下に入門していたが、友人の友寄隆優の勧めで、上地寛文師(上地流空手道開祖)の門下に入門する。

上地完文の和歌山時代の高弟が集う。右端、第二代宗家を継いだ上地完英氏。中央は完文の日本における一番弟子である友寄隆優氏。左端は上原三郎。

上地完文の和歌山時代の高弟が集う。右端、第二代宗家を継いだ上地完英氏。中央は完文の日本における一番弟子である友寄隆優氏。左端は上原三郎。

 和歌山隆聖館初代館長の故人友寄隆優らと厳しい修行に励む。仕事を終えるとそのまま道場に通い、休みの日などは朝から道場に入り浸りで修行に打ち込んだ。
 そんな修行が実って1932年(昭和7年)に、上地寛文師から免許皆伝を許され、同年大阪市大正区に移転し、東洋コークスの荷揚げ請負作業の監督をしながら、夜は空手道の指導をする。
 その頃沖縄空手道の普及に努めていた、糸東流空手道開祖の摩文仁賢和先生と共に市内の警察署巡りをして、上地流空手道の基本である「三戦」型の実践的鍛えとその威力を紹介し、上地、糸東両流の型の分解を通して、徒手空拳「空手に先手なし」の極限的技法と人格陶冶の武道空手としての真髄を披露、その普及に努める。

 戦後1946年(昭和21年)11月に帰郷し、翌年1947年(昭和22年)9月那覇市宇栄原(旧小禄村)の割り当てテント小屋で、親戚や地域の若者らに空手の指導を開始、1948年(昭和23年)9月に「修徳会空手研究所」を開設、1958年(昭和33年)5月那覇市小禄の現在地に道場を新築移転し、道場名を「上地流空手道小禄道場」に改め、斯道の普及発展に努める。

 1956年(昭和31年)5月沖縄空手界の大同団結を図るため結成された、全流派の沖縄空手道連盟に参加し9年間理事を務め、沖縄空手界に多大な貢献する。
 また、師の遺志に従い、常に上地流空手道協会ニ代目上地完英の相談相手として補佐し、上地流空手道の普及に努め、今日的発展の礎を築いた。
 また亡き師を偲び冥福を祈るために、毎年お盆には欠かさず仏前に香を手向け、今日あることを報告し感謝したという。

 1962年(昭和37年)に那覇劇場で催された、上地寛文追悼演武大会で、亡き師が最も重視し心血を注いでいた「三戦」を演武し、師の遺志に応えた。
 「ハッ」と鋭い気合いとともに繰り出す左右の貫きと、一歩一歩また一歩と舞台を揺るがすように歩む様は、正に猛り狂う暴風雨(台風)にビクともせず抗い立つガジュマルの巨木を彷彿させ、62歳の年齢を感じさせない迫力に満ちたものだったという。
 「三戦に始まって三戦で終わる」を一途に、その奥義を求め、日々の精進を続け、現世に帰すことのない永遠の旅立ちの2〜3週間前まで実践し続けた愚直の武人だった。

 65年の生涯は、空手一筋に生き、師の教伝を忠実に守り、「生活の中にこそ空手道の存在価値がある」として、常に和を尊び護身に徹し、自ら覇を唱えず、平和の思想を堅持し、性格温厚にして義理人情に厚く、今なお小禄地域では「ブサース」(ブサーは武士、スはお父さんの意)で「武人」と称され親しまれている。享年65歳

■ 上地流空手道系統図

上地流空手道系統図

■ 上地流の形(型)

上地流では計8つを流派の形としている。

三戦(サンチン) 上地完文が中国から持ち帰った形
十三(セーサン)
三十六(サンセーリュウ)
完子和(カンシャブ) 上地完英が創案した形
十六(セールイ)
完戦(カンチン)
十戦(セーチン) 上原三郎が創案した形
第二十三(ダイニセーサン) 糸数盛喜が創案した形(完周)

その他に、上地流空手道振興会では上原三郎が創案した、婦女子、三戦補助形として構成された『体極初段』がある。

また、上地流空手道振興会修武館 関東関西連盟では、完子和(カンシャブ)の形に進む前に、上原勇総師範が創案した、第二心波(ダイニシンファ)、三郎魄進(サンロウハクシン)があり、初段以上になると十三保存形(十三が統一される前の形)、高段者になると三戦保存形(三戦が統一される前の形)の習得が許される。

■ 修武館

上地完文翁から伝わる修武館の名前を、上地流すべての道場に付けるべきでは、と提案したのは、現上地流空手道振興会 総本部道場館長の上原武信先生。(沖縄県指定無形文化財保持者)
上地流の総会で承認され、以来、上地流の空手道場は何々修武館と道場名が統一された。